この連載の第1回目で「“90年代の日本経済の凋落”を一番臍をかんでいるのは70年代に出版された“Japan as No1”で本国よりも日本で一躍著名人となったハーバード大学のエズラ・F・ボーゲル教授ではないだろうか?」と書いた。
実 は私は2000年に東京でのアメリカ商工会議所のあるミーティングに参加する機会があり、その時のキー・スピーカーが彼であった。聴衆者は日本に滞在する 米国人ビジネス・パーソンが多かったが、勿論、彼の話のほとんどが“Japan as No1”に関することであった。 話はこの書に対する批判のことから始まった。 即ち、「外国人から見ても90年に入ってからの経済低迷から脱出できない 日本の不様さはアキレルほどであり、これが貴方が書いた日本なのか?一体、日本のどこを見ていたのだ」と多くの人から批判を受けたとのことである。この前 段のあと、”Japan as No1” が何故、これほどまでに凋落したのかを考察した話であった。少し長くなるが彼の論点をまとめると以下のようである。
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「米 国はいまだに健全なる経済を享受している。我々、アメリカ人は自由経済主義のリーダーとなっていることを誇りに思うべきである。だからと言って、我々は 80年代の日本人のように傲慢になるべきではない。又、経営手法の開発、構築に独創性があるのだとうぬぼれてはいけない。我々はむしろ80年代に日本から 実に多くの経営システムを学んだ。又、それらを米国市場に適合するように調整したというその柔軟性に富んだ精神を誇りにすべきである。もしヨーロッパ人が アメリカ人と同じほど柔軟性に富んでいれば、これほどアメリカが一人勝ちしているとは思えない。
今度は日本がアメリカから学ぶときである。そして、学んだそのままではなく、それらを日本市場に合わせて柔軟に修正してゆくべきである。日本はアメリカの鏡に映った像ではないのだから。
自分は経済学者ではない。社会学者である。その観点からすると、いまなお日本の社会システムはアメリカのそれよりも優れていると信じている。私の懸念はもし同じ程度の経済不況がアメリカを襲ったとき、アメリカの社会の混乱は日本の混乱の比ではないと思うことである。」
こ の分析のすべてが賛成できるとは思わない。しかし、いかなる国家、企業にも栄枯盛衰があるということは歴然とした事実であり、そして、その衰退を如何にし て防ぐかということにおいてリーダーの役割が重要である。ということで上記の話を今回のリーダーシップ論の考察の種にすることにした。
彼の話には多くの示唆を含んでいる。即ち、
1)人間は誰もが傲慢になりやすい
2)傲慢さが柔軟性を失わせる
3)競争社会と社会の安定性を保つための柔軟性
についてである。
傲慢なリーダー
No1と誉めそやされると人間は誰でも傲慢な態度に陥りやすく、自分の立場を見失いやすい。私もNY駐在中に、80年代の日本とアメリカを比較して、“も うアメリカからは学ぶものがない”と多くの日本人駐在員が豪語していたことを記憶している。上に立てば立つほど謙虚な態度が必要である。歴史の中でも後世 に名君になるはずの資質と能力をもったリーダーが暴君に変わってしまったケースは推挙にいとまがない。近代アジアの多くの国を見ても、国家の改革という高 邁な志を有していた若いリーダーが、一端頂点に立つと、もとの志を忘れ、地位にしがみつき、地位を守るため傲慢さと残虐度が高まってくるケースが多くあっ た。フイリピン、ベトナム、カンボジアなどは、わずか一人のリーダーとその取り巻きのために全国民が不幸のどん底に落し込まれたのである。
本来、 傲慢さの反語である謙虚さは日本の美徳であるはずなのだが、謙虚さを保つのは実に難しいようである。海外へ出ると(特にアジア地域では)、日本人のいう謙 虚さはメッキが剥げるようである。現地人の人格を無視してドナリちらしている日本人を多く見受けることは実に見苦しく、悲しい。このような光景を見ている と、日本人の言う謙虚さとは上下関係の厳しい組織の中で生き延びるために利害関係の上位者にたいしてへりくだっているとしか思えないことがある。下位の者 に対しても謙虚であることが真の謙虚さではなかろうか?部下にたいしては横柄な態度、上部にたいしては手のひらを返したようにヘツライの態度ではとても リーダーとして部下からの信頼は得られないであろう。
柔軟性の欠如
成功者は傲慢になると同時 に、その体験が災いして、それまでの考え、手法が正しいはずだと信じ込んでしまう。即ち、リーダーは柔軟性に乏しくなりやすい。組織の頂点に立ちつつ、柔 軟性を保つのは簡単ではない。特に日本のように年功序列で成功体験をもった年配者が長期間君臨する社会ではその組織が柔軟性を保つのは至難のことである。
ア メリカ人は柔軟性があるというが実は日本と大きく異なるのは新しい価値観、アイデアを持った若者が絶えず台頭してくるからだと私は考えている。即ち、人が 入れ変わることによって、社会全体としての柔軟性を保っているのである。日本でも最近では、バブル崩壊後の構造改革、規制緩和などをベースに新しいIT事 業の世界から多くの若い経営者たちが台頭してきて、マスコミ界、経済界を賑わしている。彼らの手法が良いか悪いかの議論は別にして、このような若い人材が 数多くでてきて欲しいものである。これはある意味のプチ・クーデターであろう。私は大賛成である。世界を見渡すと、このようなアイデアに溢れた若者が多く いるのである。日本だけが年寄りの力だけで社会の健全性を保てるわけがない。世代交代が社会の柔軟性を保ち、バイタリティーの原動力となる。勿論、誤解し てもらいたくないのは何もかも伝統を無視しろと言っているのではない。若者は競争力をもたらすが、得てして暴走しやすい。その暴走を止めるのが伝統の中に ある美徳である。この美徳と競争力を融合させることが必要であり、諭し、語り継ぐのはやはり年配者しかいない。
私の友人であるシンガポールの中国 人と議論した時の話である。彼いわく「Mr. Inoue, 日本人はどうして仕事の決定にあれほどエモーション(情)を持ち込むのか?我々、中国人は仕事は闘いと認識し、決定はロジックを基本とす る。しかし、一端、会社をでれば年配者を敬い、エモーションを大切にする。中国人は仕事には実に厳しく、ドライである。しかし、家庭にもどれば親、兄弟、 親族という伝統的な美徳を大切にする」と。残念ながら、日本では会社と家庭が分離していないため、これほど仕事の名の下に家庭を犠牲にする国民はないので はないか?父親はいつも残業で子供と接触する時間が少ない。家庭のためにお父さんは頑張っているのだからというセリフを言ったとしても子供には父親の背中 は遠くにあって、ほとんど見えないのである。これでどうして心の安定した子供たちが育つのであろうか?
“出来ません”の発言
左から書くことと、右から書くことのもう一つの大きな違いは、左から書くと現在の経営資産をベースにして考えるため、改善、改良はできても、大きな変革を しようとすると“それは出来ません。”という否定的なコメントが多くなる。しかし、右から書くということは、出来る、出来ないの問題ではなく、志、夢、目 標の達成を“可能にする”にはどうするかという思考であって、過去や現在は知識としては重要ではあるが、それに頼ってはいられないのである。即ち戦略とは “出来ません“ではなく、出来るには何をすべきかを考えることである。時には過去を断ち切り、現在を破壊することも含む。そのためには、犠牲を出さねばな らないこともある。それを恐れていてはリーダーにはなれないのである。現在にしがみついている人には極めて厳しい時代になってきた。
将来の日本に対する可能性の探索
もうひとつボーゲルの話の中で重要なのが社会の安定性である。確かに米国型の価値観はバイタリティーを重要し、競争社会の中で優れた人材を輩出し、その人 たちが社会をリードしてゆく。そして勝者がほとんどの報酬を得るのである。この社会システムが世界中の才能ある人材をひきつけることは事実である。しか し、弱者には実に厳しい社会である。今年はアメリカを多くの大型ハリケーンが襲ったが、カトリーナの時は、多くの貧民層の人たちが犠牲になった映像や、略 奪のシーンをマスコミは取り上げていた。逆にいつも世界から不思議がられるのが、日本では大地震で多くの被災者が出ても、略奪行為はまず起こらず、住民、 ボランテイアーたちが助け合うということである。これがボーゲルが社会学者として言いたいところであり、日本が世界に誇っても良い事であろう。
グローバル化の正の部分は競争力を高めるということ。しかし、負の部分は異文化混入が進めば進むほど社会は矛盾し、混乱するという事実である。
私は “グローバル競争力を高めつつ、社会の秩序と安定を保つ。それこそが真の豊かの国家である”と信じている。
企 業の収益と社会的責任は短期的には相反するものである。最近ではCSR(Corporate Social Responsibility)活動が企業価値を高めるとして盛んに論じられるようになってきた。私は基本的には成果主義はグローバル競争力を高めるため に必要だと考えている。しかし、アメリカ型の成果主義では短期利益追求のため、この社会的責任が犠牲になる可能性が大である。欧州、特にスカンジナビア発 の経営コンセプトはアメリカ型ではなく、収益性と社会貢献性の両者を追求している。よく考えると元来、日本企業の理念の中に社会貢献を標榜しているところ が多かった。残念ながら、今は日本企業は欧州を追従しているように思えてならない。世界に日本の良さ、即ち、“企業の収益性と社会貢献性”という二項対立 の良きバランス追求をお手本として世界に発信するというリーダーが政治、経済界に多く出てきてもらいたいと願っている。
相反する2つのことを如何に対処するべきか?そのための一つの可能性ある方向つけとして、私は日本人は二項対立にたいして鋭いバランス感覚をもっていると思っている。これについては次回に“パラドックス・バランス・マネジメントの薦め”として考察してみたい。(つづく)
グローバルマネジメント研究所フェロー
HIアソシエーツ代表
井上裕夫(花王株式会社 元理事)