「ビジョン」とは将来のありたい姿のこと。企業が人と組織のベクトルを合わせるうえで、「ビジョンを描く=ビ ジョニング」は重要である。しかし単に描くだけでは不十分。ビジョンによってベクトルが合い、組織の人々が動機づけられることが、ビジョンのビジョンたる 所以である。
1.いま求められている
「ビジョニング」とは何か
「ビジョンを描く」とよく言うが、一 体これはどんなことを意味しているのだろうか。それは「こうしたい」「こうありたい」という将来の「ありがい姿」を描き、人と組織のベクトルを合わせ、動 機づけることである。ビジョンを描くことの意味はここにある。単に描くだけでは不十分なのだ。ビジョンによってベクトルが合い、組織の人々が動機づけられ ること。これこそがビジョンのビジョンたる所以である。
では一体、いまなぜビジョニングが必要なのだろうか。主に5つの理由があると考えられ る。一つは多様性だ。企業のグローバル化が進めば進むほど、そこでかかわる人々の間に多様性が生まれる。放っておけばバラバラになってしまう人々をつなぐ ものとして、共有できるビジョンが重要になってきている。
もう一つはイノベーションである。多様性にもつながるが、イノベーションを起こすには異質の組み合わせが必要だ。異質が組み合わせられ、そこにイノベーションが起きることを可能にする触媒は、やはりビジョンである。
3つ目は変化である。変化への行動を動機づけるとき、ビジョンは非常に重要だ。どんな企業でも、社内に変化を起こそうと努力している。そのきっかけとなるのはビジョンにほかならない。
4つ目は、人と組織に希望と勇気を与えるもの。これがビジョンである。名作『ライムライト』でチャップリンが、「人生には希望と勇気、そしてほんの少しのお金があればいい」と言ったが、混迷を深める現代にあって、企業にも希望と勇気が必要になっているといえる。
企業全体から個々の従業員、組織に目を向けたとき、ビジョンはブレイクスルーへの課題を見つける道しるべである。高いビジョンがあってはじめて、克服すべ き課題が生まれる。課題展開の推進力がビジョンであり、ビジョンがなければ過去の成りゆきの戦略で仕事をこなす、といった状態に陥ってしまうだろう。
以上のことから、企業全体から見ても、個から見ても企業にとってビジョンは重要な役割を果たしている。特に日本企業が世界のトップランナーになった現在、 新たなビジョニングへの必要性は今後ますます高っていくだろう。ビジョニングができている企業とできていない企業の間で、大きな差が生まれているといって も過言ではない。
2.夢とロマン、そしてインパクト
人々を動かす崇高なもの
優れたビジョニングの事例を紹 介しよう。古くは親鸞のビジョニングを例に上げることができる。浄土真宗の開祖となった親鸞は、「信仰は念仏だ」と主張した。これは日常生活のなかで念仏 を唱えれば、誰でも浄土に行けるという非常にわかりやすいビジョンであった。親鸞はさらに自ら妻帯することで、身を以って「在家仏教」を示したといわれて いる。
戦乱に明け暮れた鎌倉時代、社会秩序は崩壊し、末法思想が蔓延するなかで人々は希望のない日々を送っていた。当時の人々にとって「念仏を唱えれば浄土へ行ける」というシンプルなビジョンは、力強い希望を与える言葉だったといえる。
私自身にとっても強烈なインパクトがあった例といえば、アメリカのケネディ大統領が示した「宇宙への夢」がある。彼は1960年代の初頭に、「1960年 代の終わりまでに人類を月へ送り込む」という壮大なビジョンを示した。アメリカはそれまでソ連との宇宙開発競争に遅れを取っていたが、NASAを中心に膨 大な国家予算をつぎ込んでその巻き返しを図ったのである。
ケネディの政治的意図は、ソ連との競争に勝つことだったかもしれない。しかし彼は国民 を説得するとき、そんなことは一言も言わなかった。「月へ人類を送り込む」という「全人類の夢」ともいえる大きな夢を示し、国民を崇高な憧れに駆り立てた のだ。1969年、アポロ11号は月に降り立ち、結果としてソ連との競争に勝利を収めたのである。
経済の世界でいえば、日本を代表する企業ソ ニーを例に挙げたい。ソニーは「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむべき、自由闊達にして、愉快なる理想工場の建設」という設立趣意書を明示し た。現在ソニーは苦戦しているといわれるが、実はこのビジョンから外れてきてしまったことがその理由ではないだろうか。モノづくりの会社が、そこから離れ てきたとき、原動力を失ってしまったともいえる。
花王の創業時代の逸話も有名だ。洋小間物店を営んでいた長瀬富郎は「外国品に負けない品質で、かつ誰でも買える国産化粧石鹸を市場に送り出し、石鹸を日々の暮らしに欠かせない生活必需品とする」という志を立て、その通りの夢を実現した。
3.凡才のビジョニングを目指して
天才を凌いでいく
優れたビジョンはこのように、多くの人々を動かし、大きな力を生み出す起爆剤となる。ではその大切さと役割がわかったところで、どのようにしたらよいビジョニングを行うことができるのか。ここを考えてみたい。
ビジョニングには大きくわけて「天才のビジョニング」と「凡才のビジョニング」がある。親鸞やケネディ、ソニーの井深大などは、文字通り天才のビジョニン グだ。大企業の創業者などこのタイプが多いが、もちろんホンダの創業者・本田宗一郎もこの例に漏れない。天才は世の中の現象、事象を見て、物事の本質を一 瞬で捉え、一気にくさびを打ち込むようにビジョンを描くことができる。別の言葉でいえば、一瞬のひらめき、直感によってビジョニングを行うのだ。
本田宗一郎の有名な逸話で、1954年のTTレースの出場宣言がある。当時会社は朝鮮戦争の特需が終わり、経営状態は非常に厳しかった。ホンダも資金繰り がうまくいかず、倒産するかしないかの瀬戸際にあったのである。この時、普通の経営者ならば経費節減や在庫整理など、経営のスリム化に走るだろう。ところ が本田宗一郎は、世界最高峰のオートバイレースと称されるイギリス・マン島のTTレースへ出場し、優勝して世界へ羽ばたくのだと宣言した。天才なるがゆえ に、ホンダの本質を見抜いたといえる。
ただこの話のミソは、一方で藤沢武夫が数々の銀行を回り、融資を引き出したという点である。当時は無名の 小企業だったホンダ。しかも倒産寸前とあれば融資する銀行などあるはずもない。ようやく融資を承諾したのが、三菱銀行京橋支店の鈴木時太支店長だった。鈴 木氏がいなければホンダは倒産していたであろう。この時の恩を忘れず、いまでも多くのホンダ社員が口座をつくるのは三菱(現・三菱東京UFJ)銀行の京橋 支店なのだ。
さて話を戻そう。くさびを一気に打ち込むような「天才のビジョニング」に対し、われわれが考えるべきは「凡才のビジョニング」であ る。誰をも束ねるような大きなビジョンを一気に描く力は、普通の人にはない。そこで、チームでアプローチすることで天才に負けないようなビジョンを描くこ とを目指すのだ。
本田・藤沢の後を引き継ぎ、ホンダの舵取りを任された河島喜好は、この「凡人のビジョニング」によってホンダを引っ張っていこ うと考えた人であった。ホンダは本田・藤沢という2人の異質な天才の組み合わせによって大きく成長した企業である。しかしこの天才と同じことは自分にはで きないと河島は考えた。だが天才に負けないよう、チームによって天才に近づくことはできるのではないか、というのが河島の発想であった。
1人の天才に対して、多数の凡人。1人の偉大な天才に対し、それぞれ異質な能力を持った多数の凡人が束になってかかり、小さなステップを踏んで本質へ近づく。そしてくさびを打ち込む。そうすれば天才に勝るとも劣らないビジョニングが可能であると河島は示したのである。
そのために大切なのは、1人ひとりの異質な能力が、フルに発揮できるような自由でのびのびとした環境と仕組みをつくることであった。そこで河島は大部屋役 員室をつくり、ワイワイガヤガヤ、いろいろな話をできる形を整えた。有名なホンダの「ワイガヤ」である。50年、100年続いている企業には、必ず1人や 2人の天才はいたことだろう。しかしその他の多くの人々は、単なる凡人に過ぎない。凡人チームワークによって、天才を凌いでいこうとすることが、その企業 が長年にわたって成長を続ける秘訣ではないだろうか。
4.三段発想で
大きなビジョンへたどり着く
では凡人チームはどのようにしたら、大きなビジョンへたどり着くことができるのだろう。実はビジョニングに関して、ホンダで受け継がれてきた発想法がある。それが「三段発想」だ。
まず最初にどういう会社、どういう事業、どういう商品やサービスを実現したいのか「ありたき姿」を描く。次に現実をきちっと見る。ポイントはありたき姿か ら現実を見ると、課題が見えてくるという点だ。これがビジョンと戦略の関係性である。戦略が見えればそこから具体的な方法に落とす。これが三段発想の基本 である。
三段発想のポイントは、いかにしてありたき姿を発想するかにある。ありたき姿を発想するためのヒントは、「視点・視座を変える」ということにある。
視点・視座を変える一つ目の方法としては、社是、基本理念に戻って考えることである。どんな企業にも社是、基本理念といったものがあるが、その具現化を求めることでありたき姿を描くことができる。
2つ目の方法は、相対価値ではなく絶対価値を求めることである。物事の本質の追究と言い換えてもいいだろう。
3つ目の方法は世のため、人のためといった利他行の視点を入れることである。
4つ目の方法は世界一、世界初を求めること。これは絶対価値を求めることにも通じる。
5つ目は現状を否定すること。発展的破壊を試みることで、視点・視座を変えることができる。
5.わかりやすい言葉で
ビジョンを表現すること
次に大事なのは、ビジョンをいかに明文化するかである。本田宗一郎が「TTレースで優勝して世界へ羽ばたくんだ!」と言ったように、ケネディが「1960 年代の終わりまでに人類を月へ送り込むんだ!」と言ったように、ビジョンを誰もがわかりやすい具体的な言葉で述べること(=ステートメント)が重要であ る。
ではステートメントには何が含まれている必要があるか。それは次の5つの要素である。一つは「何のために」それを実現するのかがわかる要素 が入っていること。2つ目は「わかりやすい」こと。すなわち、表現が簡潔で何をどうしたいのか部外者にも理解できるものになっていることである。3つ目は 「夢・ロマン」が含まれていること。達成できたときに達成感、誇りなどを持てる表現になっているかどうか。4つ目は「インパクト」があること。相手に強い 印象を与え、“ハッ”とさせる新奇性を持っているかどうか。5つ目は「ミッション」が含まれていること。ありたき姿が自らのミッションや期待・役割に見 合ったものになっているかどうかチェックしてみよう。
この5つの要素がパーフェクトである必要はないが、この5つのポイントから自社のビジョンを見直すとその適合性がよくわかってくるはずだ。こうしたいという熱い思いや、夢・ロマンがあり、文章が簡潔で、強いインパクトを与えるもの、それが優れたビジョンであるといえる。
6.人事のビジョンとリンクした
人事制度づくり
ではここで、人事部門のビジョニングについて考えてみよう。人事のビジョンは企業の経営理念、ミッションなどとリンクしていることが必要だ。例えばホンダでは、企業の基本的理念として「人間尊重」を掲げている。この理念に従った人事の理念は「自立・平等・信頼」である。
もう一つ大切なのは、人事のビジョンを明文化したら、そのビジョンにリンクする制度をつくり込むことである。制度は一つでも2つでもいいが、ビジョンを具 体化するものを示すことが必要だ。人事部門のビジョンは、ビジョンをつくっただけで終わらせてはいけない。制度へリンクさせることが非常に重要なのだ。
ホンダでは1953年に永年保証制度という人事制度を打ち出した。1953年といえば、朝鮮戦争の特需で日本中が好景気に沸いていた時代である。ホンダで も夜を徹しての作業が続けられた。ところが栄養状況がよくなかった当時は、無理な労働で病気やケガで倒れる従業員がしばしば出たのである。
永年 保証制度は、ケガや病気で仕事が続けられなくなった社員を雇用し続けるという、当時としては画期的な制度であった。本田と藤沢は、人事理念として「自立・ 平等・信頼」を掲げているにもかかわらず、病気になったからといって解雇するのは理念に反する。そんなことをしたら、従業員はこの理念を信じられないので はないかと話し合った。そこでこの制度をつくったという話が伝わっている。
世界的に有名な企業でも、理念にリンクした制度を持っている企業が多 い。キヤノンは「文化・習慣・言語・民族の違いを乗り越えて人類全てが豊かに暮らしていける社会」を目指すという企業理念を掲げている。ここから、自覚・ 自発・自治という「三自の精神」が生まれ、これに見合った制度として「自己申告制度」「タイムカード廃止」などの種々の制度を発足させている。
さて世間を見渡してみると、企業理念やビジョンは持っているが、人事のビジョンを持っていない企業は多い。しかし人事部門としての理念を考えることで、人 事の役割の本質を見極め、見出すことができるだろう。ブームに乗ってさまざまな新制度を導入するのではなく、企業にとって必要なもの、目指すべきものを具 現化するための制度導入。そんな本質的な人事制度構築の道しるべとしても、人事のビジョンを見直す価値があるといえよう。
制度がうまく回っていない、うまく機能していない、そんな悩みを抱える企業は、ぜひ一度人事ビジョン、経営理念と制度との関係を見直してみてほしい。本質を求めれば自ずと道は見出されるのだ。
7.Planを自分のものとする
自ら問題・課題を見つける力
ではビジョニングから仕事の進め方を考えた時、どのような進め方ができるのだろうか。私はこれを「DST-PDCA」「ST-PDCA」だと考えている。後半の「PDCA」は、「Plan」「Do」「Check」「Act」と、よく知られたPDCAサイクルである。
ビジョニングの視点から考えたとき、この前に「DST」が加わる。それはありたき姿を描く「Draw」、現実をキチッと見る「See」、そして課題を考える「Think」である。
「ST-PDCA」の「ST」は、「See」からはじめるサイクルだ。わかりやすく言えば「DST-PDCA」は明日の問題を考えるサイクルであり、 「ST-PDCA」は今日の問題を考えるサイクルである。いずれにせよ大切なのは、このステップをつけることで「PDCA」への大きな動機づけができると いうことだ。
多くの企業の場合この3ステップを飛ばし、最初から「PDCA」が与えられる。これでは動機づけができないのは当然である。 Planが自分のものになるためには、「DST」あるいは「ST」が必要なのだ。このステップを踏むことで、「PDCA」が主体的に回るようになるだろ う。そしてそこに、自分で考え行動する仕事の進め方の基本があるのだ。
グローバルマネジメント研究所 取締役パートナー
光富 敏夫